特別寄稿

堺ライオンズクラブ50周年記念誌特別寄稿 堺をもっと知ろう

(1) 中世の堺の地位は?
 先ず1595年にアントワープ(今のベルギー)で出版されたオリテリウス・ティヒラの日本の古地図(堺市博物館蔵)のよれば、当時の日本列島に挙げられている都市の名前はミヤコ(都)、サカイ(堺)、ヒラド(平戸)、イワミ(石見銀山)で、勿論江戸や長崎、大阪の地名は一切見当らないほど、当時の堺はイエズス会の宣教師達や、東南アジアへ雄飛した堺商人によって、ヨーロッパ各地に堺の名が知れ渡っていたことは注目すべきだ。応仁の乱(1466〜1477)の10年間の内戦で、都がすっかり灰燼に帰し、都の難民(職人達)が南北朝、室町時代から栄えていた堺を目指して移り住み、堺の産業発展に寄与したことも幸いだった。地名に綾之町、錦之町がいまも用いられているのは西陣の職人達が織屋を営んでいた証拠である。
 いずれにしても中世の海外への玄関口として発展せしめた堺の先人達を忘れてはならない。近年政令指定都市となったが往年の堺は世界でも驚くべき繁栄都市であったことを識っておいて欲しい。
 東洋のベニスと呼ばれたのは当然だ。

(2) 堺の三大偉人は?
 堺は世に知られている三人の偉人を輩出している。ご存知かな?古い順番に行基(668〜749)、利休(1522〜1591)そして河口慧海(1866〜1945)の三人、慧海については知らない人が多い。世界的に有名なチベット学の祖であり、1897年わが国を出発し、一切経を求めて1900年(明治33年)チベットへ密入国を企てたのである。羊二頭に荷物を積んでネパール(ネパール入国の初めての日本人)を通り単身ヒマラヤ越をした探検家でもあった。彼の『チベット旅行記』は数多くの外国語に翻訳され、国内よりもむしろ海外でその名を知られ、近年わが国でも彼の偉業が認められるようになった。彼の生家に近い堺市南海本線七道駅前ロータリーにある彼の銅像は、わがライオンズクラブ25周年記念アクティビティーとして、今まで堺市民の知らなかった慧海を顕彰したものである。大仙公園にある利休、紹鴎の像と共に堺クラブの誇るべき堺の名所となったアクティビティーである。

(3) 住吉大社は堺にあった?
 「堺」という地名の由来は、摂津の国、河内の国、和泉の国の三国に跨る国境に栄えた町から「堺」と名付けられたが、都に向かって左側に海があることから、古くから「左海」というあて字を用いたことも知られている。また、明治元年(1868)から13年間、大和の国に至る広大な地域を「堺県」としたが、明治13年(1881)、大阪府に合併され今日に至っている。ご存知の住吉大社は摂津の国の南の端にあって、もともと堺の地域内に位置したが、大和の国の水を集め、河内の国の生駒山麓を北西に流れて淀川に合流していた大和川は、度々洪水をひき起こしていたので、幕府の命により1704年、大和川の付け替え工事により、今の柏原市から直接西方の大阪湾にそそぎ、堺であった 摂津の国の一部が分断され、大阪の住吉大社となった。17世紀モンタヌス著の「日本史」に当時海側から見た堺港の繁栄の様子を描いた銅版図絵に住吉大社と思われる社(ヤシロ)が左端に見られることでもわかる。
 序で余談ながら、摂津の国の南端で生まれた松花堂昭乗(1584〜1639)もまた堺の人であって、のち滝本坊と称し、書家、絵師、茶人としても有名である。吉兆の故湯木貞一氏が、松花堂の名をかりて弁当を作った。思わぬ人が堺の人であったことも覚えてほしい。



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